雪華小紋日本の伝統的な美意識の底流には、「花鳥風月(かちょうふうげつ)」「雪月花(せつげっか)」を(あじ)わい()でる心があります。春の桜、秋の名月、冬の舞い散る雪も、なぜか美しいものは、みな(はかな)くも(せつ)ないものばかりです。これらは万葉集(まんようしゅう)以来、受け継がれて来た情趣(じょうしゅ)や感性の原点になっているといえるでしょう。桜の花が、長い冬の寒さに()え、春の(おとず)れとともに一気に咲いたと思えば、ものの見事に散るさまは、日本人なら共感を(おぼ)えます。また、雪には、「雪ぐ」を「すすぐ」「そそぐ」と読むように、洗い清め、(よご)れを除き去る意味があります。舞い散る雪は、あっという間に()けてしまい、けがれのない雪の白さ、(はかな)く消える風情に心ひかれるものです。時代小説「雪の殿様鷹井伶(たかいれい)(ちょ)の中で、雪に()せられ観察を続ける古河(こが)藩主(はんしゅ)大炊頭(おおいのかみ)土井(どい)利位(としつら)を「蘭鏡(らんきょう)(顕微鏡)の小さな(のぞ)き穴の奥に、この世にこれほどまでに美しいものがあろうかと思えるものが光り輝いていた。利位(としつら)にとって雪華(せっか)は天空から舞い降りた天女(てんにょ)であった。」と述べています。このきものは、利位(としつら)刊行(かんこう)した「雪華(せっか)図説(ずせつ)」にある雪の結晶模様を雪華(せっか)小紋(こもん)として現代に再現し染色したものです。

(創作:きものカルチャー研究所世田谷弦巻教室 須長環

雪の殿様土井氏は、土井利勝(としかつ)に始まる徳川家康側近の譜代大名(ふだいだいみょう)であり、江戸幕府においては老中(ろうじゅう)大老(たいろう)の職につき、下総国(しもうさのくに)小見川(おみがわ)藩主(はんしゅ)佐倉(さくら)藩主(はんしゅ)古河(こが)藩主(はんしゅ)をつとめ、二代将軍秀忠(ひでただ)の元では老中(ろうじゅう)として絶大な権勢(けんせい)(ほこ)りました。利位(としつら)は、寛政(かんせい)元年(1789年)土井家の三河(みかわ)刈谷藩(かりやはん)・土井山城守(やましろのかみ)利徳(としなり)の四男として生まれ、文化10年(1813年)25歳で土井家の本家である土井利厚(としあつ)養子(ようし)となり古河城(こがじょう)に移ります。文政5年(1822年)34歳で土井宗家(そうけ)11代当主となり、古河(こが)藩主(はんしゅ)大炊頭(おおいのかみ)となります。大炊頭(おおいのかみ)とは大炊寮(おおいりょう)の長官のことで、宮中で行われる仏事・神事の供物(くもつ)宴会(えんかい)宴席(えんせき)の準備を分担する役職であり、御料地(ごりょうち)(直轄地)の管理を行うとあります。
利位(としつら)は、文政6年(1823年)奏者番(そうじゃばん)(江戸幕府にあって大名登城の際、儀式典礼を司った職名)を皮切(かわき)りに同8年には寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)天保(てんぽう)5年(1835年)大阪城代(おおさかじょうだい)となり大塩(おおしお)平八郎(へいはちろう)(らん)鎮圧(ちんあつ)し、その(こう)もあってか京都(きょうと)所司代(しょしだい)()て翌9年には西丸(にしのまる)老中(ろうじゅう)抜擢(ばってき)されます。さらに天保10年(1840年)には本丸(ほんまる)老中(ろうじゅう)となり、水野(みずの)忠邦(ただくに)の「天保(てんぽう)改革(かいかく)」を推進(すいしん)します。しかし、その後は改革反対派にまわり忠邦(ただくに)失脚(しっきゃく)させ、ついには老中(ろうじゅう)首座(しゅざ)地位(ちい)にまで(のぼ)()めます。そして、忠邦(ただくに)が再び老中(ろうじゅう)首座(しゅざ)に返り咲き、結局は老中をやめることになりますが、幕藩(ばくはん)体制下(たいせいか)においてエリートコースを歩んだ逸材(いつざい)だったといえます。

「江戸の松 名木盡」渓斎英泉(古河歴史博物館所蔵)江戸時代末期の天保(てんぽう)年間(1831~1845年)、下総国(しもうさのくに)古河藩(こがはん)(現・茨城県古河市)第4代藩主(はんしゅ)であった土井大炊頭(おおいのかみ)利位(としつら)(1789〜1848年)は、蘭学者(らんがくしゃ)である家老(かろう)鷹見(たかみ)泉石(せんせき)の協力のもと雪の結晶を観察・記録し、その結晶を「雪華(せっか)」と名付けました。天保3年(1832年)には、その成果として86種類の結晶スケッチを収録する「雪華(せっか)図説(ずせつ)」を刊行。天保11年(1840年)には97種類を収録した「(ぞく)雪華(せっか)図説(ずせつ)」を刊行しました。

30年にわたって雪の結晶の観察を続け、図説(ずせつ)を刊行した利位(としつら)らの業績は、日本人に雪の結晶が単一ではなく数多くの種類があることを教示し、六方(ろっぽう)対称(たいしょう)であることを正しく認識させた点で自然科学史上きわめて重要な意義を持ちます。この雪華模様が別名「大炊(おおい)模様(もよう)」と呼ばれたのは利位(としつら)の官職名からきていますが、雪の結晶模様はきものの柄に使われ「雪のお殿様」として江戸庶民から広く親しまれることとなりました。

右図:「江戸の松 名木(めいぼく)(づくし)渓斎(けいさい)英泉(えいせん)古河歴史博物館所蔵

雪の観察方法

  • 雪が降りそうな寒い夜、あらかじめ黒地の布を外にさらして冷却
  • 舞い落ちる雪を、その布で受ける
  • かたちを崩さぬよう注意して、ピンセットで取り黒い漆器の中に入れる
  • 吐息のかからぬよう蘭鏡で観察する

雪華図説物理学者/雪学者である小林貞作(こばやしていさく)氏(1925~1987年)「雪華図説新考」によると雪の結晶が六方(ろっぽう)対称(たいしょう)である記述は、紀元前150年ごろ中国(えん)韓嬰(かんえい)による「韓詩外伝(かんしがいでん)」にはじまるとされます。「凡草木花多五出 雪花独六出」――草木の花の多くは五弁(ごべん)であるが、雪の花だけは六弁(ろくべん)である――。そして、ドイツの天文学者ケプラー(1571~1630年)が「新年の贈物―六角の雪について」の出版が見られる、とあります。

右図:「雪華図説」より


六方対称小林氏は、利位(としつら)が「雪の結晶が、なぜ六角か」を解説しているところを特筆しています。それによると、「空気中の水蒸気は上昇して冷えると雲粒(うんりゅう)を生ずるが、空気中にあるのでひとつひとつがみな円形をして浮かぶ。はじめは微細(びさい)円滴(えんてき)だが、やがて合併(がっぺい)を重ねて大きな丸い雨粒(あまつぶ)となって落下する。」「冬期、雲をなす丸い水滴(すいてき)寒気(かんき)(きび)しいと、ひとつひとつ円点となって凍結(とうけつ)するが、今度は雨の場合と異なり、一粒一粒が個体(こたい)であるから、併合(へいごう)しても全体としてひとつの大きな円を作ることはできない。そこで円点は互いに相寄(あいよ)り、六つの円で中心にあるひとつの円を囲むようにくっつきあい、こうしてひらひらと空気中を舞い落ちるうちに、あのような天地の奇観(きかん)を作り上げるのである。」と解説しています。


雪華小紋