山東京傳は、宝暦11年(1761-1816)深川木場の質屋「伊勢屋」の孫として生まれ、幼名を甚太郎、のちに傳蔵と改名。15歳で浮世絵師「北尾重正」門下に入り、その才能は画業精励で21歳には、すでに画号を北尾政演と称し、絵師として活躍します。浮世絵、錦絵 などに多くの作品を刊行し、同時に戯作者 として黄表紙 や洒落本などにも、京傳の名で多くの傑作が残されています。
名前の由来は、京傳の住居が現在の銀座一丁目(京橋)であったことからか、肉筆 「桜下太夫図」に「東都楓葉山東政演画」と落款が見られます。また、家業の質屋を京屋と名乗っていたことから「山東京屋傳蔵」を省略し、山東京傳となり、さらに後に「さんとう」と音読みになったとの説が有力です。
小紋雅話は、江戸時代後期に木版画で発行された滑稽絵本で、戯画 である挿絵と詞書といわれる説明文で構成されています。時世や風俗を「もじり」「地口」「見立」というの物の見方や視点で捉え、人々を笑わせたり、喜ばせたり、面白がらせたりしました。現代なら他の芸術作品などを模倣し、揶揄 、風刺、批判する目的で書かれるパロディ本ともいえるでしょう。
もじりは、もとの表現に似せた口調の言い方。地口は、じくる、じくった、とのことから同音異義語や似通った口調を使って別の意味に置き換えること。もじりと地口は、どちらも、語呂合わせを使って表現します。一方、見立は見立てること。ある事象をありのままに見るのではなく、別の事柄に置き換えたり、なぞらえたり、趣向を凝らして転化することです。
当時の江戸は、田沼意次の賄賂政治による悪政の時代。大火事、大型台風、疫病の流行、大地震が続き、さらに、浅間山の大噴火よって飢饉が生じます。物価は高騰し、米屋、酒屋などの打ちこわしが頻発し、世情の不安はつのり、暮らしはますます疲弊していきました。幕府が思想統制と倹約令を強めるなか、人々は感じたこと思ったことを有りのままに表現することはできません。批判や風刺に対しては、禁制や過料 を受けることもありました。そんなやるせない時代にあって、笑いを誘う洒落本、黄表紙、滑稽本などが人気を博し、持てはやされます。滑稽味を出すために皮肉や風刺を使い、物事の本質を見抜いたり、問い直したり、批評したりしたのです。そこには従順さを装いながらも意地っ張りな江戸気質が見え隠れしています。京傳自身は他人の作品に挿絵を描いて過料処分と、洒落本が淫蕩 を煽るとの理由で発禁処分を受けていますが、幕政批判などはせず、戯作者としての生涯を賢明に全うしたようです。
京傳が優れているのは、浮世絵師としての技量と戯作者としての才能だけではありません。不自由で混迷する世情にありながらも、尖鋭な観察力、細緻な知性、そして、洒脱 な発想を持って微笑みと快いおかしさを提供し続けました。そこに京傳一流の美学がうかがえます。(資料:きものカルチャー研究所「続・着こなし講座」テキストより)